千年祀り唄
―宿儺編―


6 音宿儺(後編)


そのことがあってから和音は外へ行くのを怖がるようになってしまった。リハビリの先生に電話で相談すると、自宅で受けられる音楽療法の先生を紹介してくれた。和音は人一倍音に感心があるようだから、きっといい結果が得られるだろうというのだ。

それは大成功だった。確かに和音は音の出る物が大好きだった。療法士の先生は若い女性だったが、いろいろな楽器を持って来て和音と一緒に演奏したり、歌ったり、リズムをとったりしてくれた。和音はすぐにそれらの楽器に夢中になった。叩いたり、振ったり、押したりしてどんな音が出るのかを全身で楽しんでいた。カタカタという押し車に掴まって歩くことも覚えた。

「和音君、今度は先生のおうちに来ない?」
療法士のアイリが言った。
「なにがあるの?」
和音が訊いた。
「ピアノがあるよ」
彼女が答える。
「ピアノ? ぼく、もってるよ」
彼が指したのは動物の泣き声の出る2オクターブの鍵盤のおもちゃだった。
「そうだね。でも、先生の家にはもっと大きいのがあるんだよ。もっといっぱいの音が出るんだよ。どう?」
「いっぱい?」
和音はうれしそうだった。


「和音君には音楽の才能があるかもしれません。できれば、本物の楽器に触れさせてあげたいと思います」
アイリが言った。いろいろな種類の楽器を試してみたところ、和音はピアノに一番感心があるらしいのだ。そこで、外に出掛ける練習も兼ねて本物のピアノに触れさせてみようということになった。


次の週。和音はアイリの家に行くとはじめて本物のピアノに触れた。
「すごいねえ。ほんとにおとがいっぱいある。こんなにいっぱい……」
和音は一つ一つの鍵盤を押して音を確かめると目をきらきらさせて言った。
「ひける?」
和音が訊いた。
「弾けるよ。ほら、たとえばこんな曲」
彼女は軽快なタッチで曲を弾き始めた。

「ワンワン!」
和音が叫んだ。
「ピアノのなかにワンワンがいる!」
「そうよ。すごいわね。和音君、見えちゃった? この曲はね、ショパンって人が作った「小犬のワルツ」って曲なのよ。小さな白い犬が自分のしっぽを追ってくるくる駆け回るイメージなんですって」
「ぼく、わかるよ。ぼくにはみえる。そのいぬが、にわが、それに、おんなのひとも……」
「女の人?」
「うん。うれしそうにしてる。きっとそのひとは、ショパンってひとがすきだったんだね」

和音の言葉に母もアイリも驚いて顔を見合わせた。
「まあ、和音君は想像力が豊かなのね」
アイリが言った。
「そうぞうじゃないよ。ぜんぶほんとのこと」
「ほんとの?」
和音はくるりと向きを変えると鍵盤に向かって手を伸ばした。

「ふふ。早速弾いてみたくなった?」
アイリが彼にも届くように姿勢を変える。と、いきなり彼は右手でぱらぱらと「小犬のワルツ」の冒頭を弾いた。それはたった2、3小節であったが、ほぼ完ぺきな音だった。

「すごいわ! 和音君。たった一度聞いただけなのに、最初のところ覚えちゃったの?」
アイリが驚く。
「はじめのところだけじゃないよ」
和音が言った。
「ぼく、ぜんぶおぼえたの」
「全部?」
「うん。でも、まだひけないの。ゆびがうまくうごかないから……」
和音はまだリハビリの最中だった。特に左手の指の動きはまだ完全ではない。
「そうか。じゃあ、少しずつ弾いてみない? きっと楽しいと思うよ」

アイリは和音のためにいろいろ尽くしてくれた。和音はアイリが大好きだった。そして、ピアノも……。

音楽療法を始めてから和音はどんどん明るく、積極的な子どもになった。ピアノの腕も上達した。彼はたった数カ月でバイエルを終え、あらかたの童謡が弾けるようになった。


「ピアノだと?」
しかし、夫にそのことを話すとあからさまにいやな顔をされた。
「俺は今、失業中なんだぞ! そんな何十万もする楽器なんぞ買えるか!」
「でも……」
ようやく和音にとって夢中になれるものを見つけたのだ。それがあれば、家でも練習ができる。和音がどんなに喜ぶだろうと思うと母はどうしてもピアノを買ってやりたかった。

「ならば、私が働いて、そのお金で買います。それならいいでしょう?」
「おまえが働くだって? 冗談じゃない。そんなことをしてみろ。まるで俺の稼ぎが悪いからだと思われるじゃないか。それこそ世間の笑い物だ。それに、家の中の仕事が疎かになる。それでなくても、和音にかかりきりでお袋達の世話をさぼってるそうじゃないか」
「そんなことはありません。それに、お母様達はまだ十分お元気だし……」
「何? それじゃあ、年老いたお袋達を死ぬまでこき使おうってのか!」
「そんなことは言ってません。私はただ……」
「黙れ!」
夫は妻を殴りつけた。

「あなた……」
「もう二度と和音の話はするな! いいな?」
そう言って立ち去る夫の背中には和音の頭部にある顔よりも恐ろしい鬼の面が貼り付いていた。


それからまた、数か月が過ぎた。母は和音の部屋で過ごすことが多くなった。そこで母はこっそり内職をし、こつこつと小銭を貯めて和音のためにアップライトのピアノを買った。

「ありがとう。ママ。すごくうれしいよ。でも……パパにしかられない?」
「パパのことならいいのよ。あの人、いつもお酒ばかり飲んでるの。思ったような仕事がなかなか見つからなくてやけになっているのよ。でも、もう私の言うことなんかまるで聞いてくれないの。だから……」
「ママ……。ぼくがピアノをひいてあげる」
和音は疲れ切っている母を慰めようとカタカタに捕まってピアノの前に進んだ。それから、ずるずると椅子の上に這い上がると両手で蓋を開ける。黒光りしたそこに映る顔は幼い。そして、その右肩には彼のもう一つの顔が覗いている。

(そう。気づいたんだ。ぼくのもう一つの影……)
小さな両手をクロスさせ、鼓動を確かめると、和音は静かに目を閉じた。
(さあ、おいで。ぼくの、すべての風の音……。聞かせておくれ、愛の歌。奏でておくれ。時の鼓動を……)

闇の中で音符が踊る。
めくれ上がった鍵盤が列をなして曲線を描き、
波打つ鼓動が永遠の安らぎを齎して行く……。

そこはもう単なる子ども部屋ではなかった。
無限に広がる小宇宙……。
誰も犯してはならない神聖なる楽園になったのだ。

――誰にも邪魔はさせない!

近づいて来る鼓動……。

――誰にも……

突然ドアが開いた。
「貴様ら……!」
そこに立つのは鬼だった。
「あなた、どうして……?」
その鬼がいきなり母を殴りつけた。
「ママ!」
和音が慌てて止めようと椅子から転げ落ちた。
扉の向こうにはもう2匹の鬼がこちらを見て喚いている。もはや言葉は聞き取れなかった。ただ罵りの言葉をきりもなく浴びせ続ける。

「俺に隠れてこんなことしやがって……!」
「隠れてだなんて、私、ちゃんと報告しました。けれど、あなたがちゃんと聞いてくださらなかったんじゃありませんか。だから、私……。それに、これは私が内職をして貯めたお金で買ったんです。あなたやこの家に迷惑を掛けたりしていません」
「うるさい! おまえの金は俺のものだ! 勝手に使うんじゃない! この家も庭も、ここにある物はみんな俺の物なんだからな!」

「パパ」
和音はカタカタのバーに捕まると、ようやく立ち上がり、父親の方に近づいた。
「寄るな! この化け物め!」
父親がその遊具の車輪を蹴り付けた。
「あっ!」
カタカタはあらぬ方向へ進み、和音が横向きに倒れる。
「あなた、やめて!」
「うるさい! どけ! どいつもこいつも俺に逆らいやがって……!」
男の手が母を叩き、和音の手を踏みつけた。

「いたいっ! てが……。ピアノをひくぼくのてが……」
強く鼓動が突き抜けた。
「うぇーん! いたいよ! いたいよ、やめて! これじゃピアノがひけないよ。ぼくのおとがこわれてく……!」
和音が顔を上げて父親を睨んだ。肩まで伸びた髪が左右に分かれて項が覗く。そして、その頭に宿るもう一つの顔。その鬼のような瞳が紅蓮に燃える……。
「な、何だ、その目は? 俺に文句でもあるのか?」
思わず足を退いた父親が怯える。
「おとが……」
母を取り巻く三つの鼓動……。それが彼女の生気を奪って行くのだ。

――だから、俺は言ったんだ。こんなガキ、始めから堕ろしておけばよかったんだってな!
――うちの息子もついていないよ。とんでもないお荷物を背負い込んじまって……
――まったくさ。まっとうな跡取りも産めない嫁が威張りくさって……
姑夫婦も一緒になって悪口雑言をまくし立てた。
三つの鼓動が交錯する不協和音……。

「やめて……!」
和音は耳を塞いだ。しかし、その声も鼓動も鳴りやまなかった。

「そんなにこのガキが大事なら、おまえもずっとここに籠っていればいいんだ! もう二度と俺の前に姿を見せるな!」
蹴り付けられた遊具が引っくり返り、それがぶつかった勢いでコードが引きずられ、プラグが半分抜け掛けた。コンセントからはパチパチと火花が散った。

「あっあっ……!」
それに気づいた和音が何か言おうとした。が、それは誰の耳にも届かなかった。
「パパ! あれが……」
行ってしまおうとする父親の足にしがみついて懸命に振り向かせようとした。が……。
「放せ! 薄気味の悪いガキめ!」
「あ!」
蹴り倒されて和音は仰向けに倒れた。
「和音!」
それを見た母親が急いで駆け寄る。

「あなた、何てことをするんです? 和音はまだ小さいのよ」
母が庇う。
「うるさい!」
そんな母まで父は足蹴にした。
「うっ……!」
彼女はベッドの角に頭をぶつけ、くたりと倒れた。

「ママ……」
様々な音が錯綜し、高まる鼓動……。

「きこえない……。きこえないよ! ママのおと……。きこえない!」
――いやあ!

(やめて! やめて! こんなのいやっ!)
頭が割れそうだった。甲高い金属のような音が彼の精神を打ちつけた。
(まただ。いつもぼくをくるしめてきた。ママをなかし、きずつけてきた……。このおとが……。いま、めのまえにある。おまえのおとが……。ぼくのまえに……!)

――きえてしまえ!

(いますぐ、おまえのけがらわしいしんぞうをえぐりだしてやる!)
「そして……とめる!」

和音の右手が父親の胸に突き刺さった。火花が散り、壁に炎が噴出する。悲鳴は炎が呑み込んで行った。夥しい血が周囲を染め、父の身体の下敷きになっていた和音がそろそろと這い出して来る。

「とまった」
そう言って和音は笑った。
「とめてやったんだ。ぼくが……。あのにくたらしいおとを……」
右手には肉片となった心臓が握られていた。
潰れた肉と引きちぎられた血管がぶら下がり、指の隙間から赤い液体がだらだらと流れ落ちる。


「うわあ……!」
ドアの付近にいた姑達が狂気の顔で叫び、床を這いつくばって逃げ出そうとしていた。

――にがさない!

彼は両腕を思い切り伸ばした。しかし、そこからではまるで届かない。彼は近くに転がっていたおもちゃのラッパを拾って口に当てた。

――にがすものか!

二人の姿はもう見えなかった。が、和音には聞こえていた。彼らの心臓の音が……。
(もう、ぼくたちをきずつけることはゆるさない!)

――きえろ!
おもちゃのラッパが高く鳴り響いた。

炎が部屋を包んでいた。

「和音!」
炎の中に母がいた。
「ママ!」
和音がそちらに向かって手を伸ばす。母は涙を流していた。が、それでも息子をやさしく抱き締めた。
「ママ……」
彼はそっと彼女の胸に顔をすりつけて言った。
「もうおわったよ。ママをいじめたやつらのおとは、みんなきこえなくした……」
和音は左手に持っていたラッパを落とし、血で汚れた自分の右手を開いて見た。

(ほんとは、こんなことをしなくても、とめることができたんだ)
和音はその手を洋服にこすりつけた。その服も髪や顔にも赤い液体がべったりと付着していた。

「和音……」
やさしい声で母が呼んだ。
「手を洗わなくちゃ……」
静かな微笑を浮かべて母が言った。
「うん。わかったよ、ママ。すぐにそうする。でも、もうすこしだけ、こうしててもいい?」
「ええ。和音がそうしたいのなら……」
和音は彼女の胸から聞こえる鼓動だけを愛しいと思った。

「こんどはもっとうまくやる」
燃え盛る炎は部屋全体に伝わっていた。弾けた弦に掴まって、闇の子どもがけらけら笑う。そして、ついには天井が焼け落ちて父親の身体を炎で覆った……。

――ぼくたち、はじめからしんでいたんだ
(だけど、ぼくはいま、こうやっていきてる。だからきっと、あのとき、なくしてしまったぼくの、はんぶんだけのかたわれも、きっとどこかでいきているんだ。ぼくは、そのかたわれをさがしているんだよ)


その子どもは母に抱かれ、毛糸の帽子を被っていた。風に吹かれてカラカラと赤い風車が回っている。
「あ!」
ふいに強い風が吹いて、子どもの手から風車が飛んで転がった。
「はい。これ」
中年の男がそれを拾って子どもに渡した。
「ありがと」
子どもはうれしそうに受け取ると、ふーっと息を掛けて再びそれを回し始める。
「まあ、ご親切に、ありがとうございます」
女は薄い衣を着て長い黒髪をだらりと垂らし、大きな籠のバッグを持っていた。彼女は少し青ざめていた。子どもは人形のようにくっきりとした大きな瞳をしていた。

「可愛いお子さんですね。おいくつですか?」
男が訊いた。
「15になりますの」
女が答えた。
「え?」
背後で蝉がうるさいくらいに鳴いている。
「15才ですか?」
「ええ」
と女は頷いた。とてもそんな風には見えなかった。子どもはどう見ても2つか3つ。そして、その足は細かった。

「おじさん……」
唐突に子どもが言った。
「ピアノみたいなおとがする……」
「よかったわね、和音……」
女は薄い掌で子どもの頭を撫でると、陽炎のように笑った。透ける水彩画のような光景だった。男は思わずその親子に身惚れた。すると、子どもが空を見つめてさり気なく言った。

「そのさきのホールはきょう、しんでしまうんだって……」
「ホールが死ぬ……?」
その言葉が妙に引っ掛かった。男はピアニストだった。この街には友人がいて、たまたま会いに来たのだが、そのホールのことは知らなかった。
その時、バスが来て目の前で止まった。親子がいたのは停留所だったのだ。二人はそれに乗った。


男はぶらぶらと周辺を歩いていた。子どもが言ったその先のホールというのが、ずっと気になっていた。
「あった。これか……」
バブルの頃、地方にたくさんのホールが建てられた。だが、その後はどれも採算がとれず、閉鎖されるものが相次いだ。この建物もそんな物達の一つかもしれない。外観はさほど古くは見えないのに、周囲の花壇や植え込みは手入れが行き届かずに荒れていた。見れば、窓硝子の幾つかは割れ、入口の扉は開いていた。男は知らず、その扉の奥へ入って行った。

ロビーは土足で踏み荒らした跡と食べ散らかしたゴミが散乱していた。
「ホームレスでも住み付いていたのかな?」
男はホールへ続く階段を上り、重い扉を開けた。誰もいない筈のコンサートホール。なのに、闇の中から音楽が聞こえた。

「ピアノだ。誰かが弾いているんだ」
それは何ともいえない美しい音色だった。
「これはバラード……」
吸い寄せられるようにステージに向かって一歩一歩階段を降りて行く。閉まりかけた緞帳の隙間から、ピアノとそれを弾いている人間が見えた。

「人間……? これは本当に人間なのか」
それは14、5才の少年だった。長い黒髪。憂いを秘めた瞳。鍵盤の上を奔放に舞う腕はまるで複数本あるように見えた。少年の放つオーラは紅蓮の炎……。背後に浮かび上がる面は恐ろしい鬼の眼差しをしていた。

その面は、少年の頭部にぴたりと貼り付き、鼓動を打ち鳴らすように妖気を吐き出していた。恐ろしい……。しかし、美しい……。そのメロディーは人間を虜にする。もしかしたら、自分はこの音楽の魔物にとり殺されてしまうのかもしれないと本気で思った。だが、それでもいいと男は思った。この素晴らしい音楽を我がものにできるならばと……。彼はもっと近くで見ようと舞台の側に歩んで行った。

「あれは……」
ピアノの上に置かれた帽子。それはさっきバス停で会った子どもが被っていたあの帽子と同じ物だった。真夏に毛糸の帽子など妙だと思っていた。

「来てくれましたね」
ふっと演奏が途切れ、少年が振り向いた。それはやはりあの子どもと同じ顔をしていた。
「君は……和音君なのか……?」
「はい。覚えていてくれたんですね。ありがとう」

こうして正面を向いて話していると、彼は普通の少年にしか見えなかった。あの恐ろしい鬼の面は彼の後ろに付いた顔だからだ。
「いや、実に素晴らしい! これほどまでに魅力的な表現を聴いたのは初めてです」
興奮と高揚で声が上ずっていた。
「よかった。やはりあなたは本物の……」
和音はそう言い掛けて止めた。

「できれば、もう一度聴かせてくれませんか。あなたのピアノを……」
「わかりました。では、もう一曲……」
彼はそう言うと再び熱い情熱のオーラを纏い、ベートーヴェンのソナタを弾いた。


「聞いてくれてありがとう」
演奏が終わると和音が言った。男の目には涙が溢れている。
「いや、私の方こそお礼を言わせていただきたい」
男は少年の手を強く握ると頷いた。
「これほどまでの演奏をする日本人にはまだ一度も会ったことがありません。実に感動しました。できることなら、このままあなたを大学へお連れして……」
「それはできません」
少年が言った。

「それに、ぼくの演奏は完璧ではないんです」
「何故です? これほどまでに完成された美を持っていながら……」
「いいえ。駄目なんです。だから、ぼくは探しているんです。永遠の僕の片割れを……」
「片割れ?」

「もしも何処かで出会ったなら……」
「出会ったなら、必ずあなたにお伝えします」
男は約束した。少年は微笑んだが、暗幕の後ろから母が呼んだ。

「和音」
「はい。今行きます」
彼は帽子を掴むと母のもとへ駆けて行った。その後ろ姿がどんどん小さくなって、母に抱かれた時には、最初に出会った小さな男の子の姿に戻っていた。
男は呆然とそれを眺めていた。
ふと見ると足元に赤い風車が落ちていた。男はそれを拾うと急いで二人のあとを追った。

しかし、建物を出た時にはもう、二人の影はなかった。
「あれは幻……?」
手にした風車が風に吹かれてカラカラと音を立てた。

「そこの人、危険ですからすぐに離れてください!」
警備員がメガホンで怒鳴っている。
「すみません」
そう言って頭を下げると、男は急いで建物から離れた。


10年が過ぎた。男はもうあの夏の日に出会った親子のことなど忘れ掛けていた。
「黒木先生、お電話です」
「電話? 誰からだね?」
「ドイツからです。クリンゲルさんとか……」
「わかった。今行く」
以前知り合った音楽関係者からその名前だけは聞いていた。が、何故、今、わざわざ自分に国際電話が掛かって来るのかわからなかった。

「はい。黒木です。え? 幻のピアニスト?」
それは思ってもみない誘いだった。日本人の血を引く天才ピアニストの消息が掴めたというのだ。願ってもないチャンスだった。彼に会えるなら、すべての予定をキャンセルしてすぐに飛んで行くと返事をして電話を切った。

「幻のピアニストか……」
そう呟いてから、彼ははっとした。ふっと脳裏にあの夏の日に出会った不思議な少年のことを思い出したからだ。

――片割れを探しているんです

確か彼はそう言った。

――永遠の僕の片割れを……

それだけではわからない。何か目印があるのかと訊いた。

――ええ。ぼく達の名前は……オトスクナ
――オトスクナ?
――音を操る妖のことです